ウォール街の歴史
金融に携わる方なら一度は『ウォール街』を訪ねてみたいと思ってる方も少なくないでしょう。
世界最大の金融取引市場でもあるニューヨーク証券取引所やFRB(連邦準備制度理事会)、ニューヨーク連邦準備銀行もここ『ウォール街』に在ります。
『ウォール街』付近には有名なフェデラル・ホールやトリニティーチャーチルなどもあります。
ブロードウェイを少し南に下ったところにある雄牛像は有名ですよね。
観光名物であるチャージング・ブル(突進する雄牛)のブロンズ像はイタリア(シチリア島出身)の芸術家、アルトゥーロ・ディ・モディカが制作した物です。
これは1989年12月15日、ニューヨーク証券取引所前に無許可で設置した物です。
『ウォール街』とは
『ウォール街』とは、米ニューヨーク州、ニューヨーク市にあるマンハッタン島の一部の地域を指します。
『ウォール街』の名称は元々マンハッタン島、南端部に位置する通り(ストリート)の名称です。
元はマンハッタン島南端のストリート名でしたが、現在ではブロードウェーにあるトリニティ教会の正面からイーストリバーまでの通りと、またその辺りの事を指しています。
『ウォール街』の発展は、それまで金融の中心でもあったロンドン市場から、国際金融マーケットを米国が牽引した背景にあります。
これにより世界各国の金融機関の中枢が、ここ『ウォール街』へ集中したのです。
しかし残念ながら現在は『ウォール街』へ残る金融機関の本社機能は殆ど見る影もありません。
行先はタックスヘイブンでもあるマンハッタンのミッドタウンや、通信環境の素晴らしいニュージャージー州などが殆どです。
『ウォール街』に最後まで留まっていたJPモルガン・チェースも本社屋をドイツ銀行に売却しました。
しかし証券取引所のほか、銀行・証券会社・商社等の集まる世界金融の中心地には変わりは在りません。
『ウォール街』名前の由来
『ウォール街』の名前の由来ですが話しは1652年に遡ります。
現在のニューヨークシティーが当時、ニューアムステルダムと呼ばれていた時代です。
名前はニューアムステルダムを統治管理していたオランダ西インド会社が、インディアンやニューイングランドに入植したイギリス人から攻撃を避ける為、多くの木材を利用して築いた防護壁(wall)に由来します。(※現ニューヨークシティーはオランダ/ネーデルラント連邦共和国が当時管轄していた植民地です。)
この防護壁は実際の戦いで利用されることは無かったので1699年に解体されています。
また『ウォール街』はニューヨーク発祥の地とされています。
『ウォール街』の歴史
- 1792年〜:材木取引の為、商人や投資家が集まり非公式に取引所を開設する。これがニューヨーク証券取引所の起原と言われています。
- 1837年〜:当時アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンは、州立銀行を奨励しウォール街の成長を阻んでいましたが、州立銀行の株や債券はシティ・オブ・ロンドンの資本家に購入されていた事もあり上手く軌道に乗りませんでした。
- 1837年〜:アメリカに金融恐慌が起こり州立銀行が兌換停止に追い込まれます。この時に第二合衆国銀行の特許更新を阻止していた為、最後の貸し手を失う事になります。この反省からボストンを経由したウォール街への資本一極化が一挙に進んでいきます。(※1837年に起こった恐慌は、1840年代まで続く大きな景気後退を誘発したアメリカ合衆国の金融危機です)
- 1907年〜:ジューニアス・モルガンとジョン・モルガン親子が活躍した時代です。ジョン・モルガンは1907年の金融恐慌の立役者となりロックフェラー家と一緒に連邦準備制度の創設にも携わります。(※1907年恐慌とはアメリカ合衆国で1907年10月に発生した金融恐慌の事を指します。原因は前年制定のアームストロング法による資金移動と言われています)
- 1929年〜:メロン財閥が力を持ち国政に関与した時代です。その後ウォール街大暴落 (1929年) が発生。当時のペコラ委員会がジョン・モルガンの息子であるジャックのインサイダー取引を暴いた事件はあまりに有名です。『ウォール街』に対する規制は第二次世界大戦に参戦するまで続きます。
- 1950年〜:株価が上昇しインサイダー取引が普通に行われ、一攫千金を狙う者たちがここ『ウォール街』に集まり出した時代でもあります。
『ウォール街』はこういった歴史的背景もあり、現代でも金融シティーとして世界一有名な場所である事に変わりません。