知覧特攻隊員の遺書

知覧特攻隊員、遺書

知覧特攻隊員の遺書

 

今年も残りあと僅かです。

 

今年、皆さんはどんな年越しをされますか。

 

私は先月シンガポールから日本に一時帰国したのですが、その後用事を済ませてハワイへ発ち、先日日本に帰ってきました。

 

例年ながらバタバタし、少し疲れも出てきたので今年は日本でお正月を迎えます。

 

聞くところによると当ブログを普段ご覧になっている読者様の層は、20代前半〜30代前半までの方が多いそうです。

 

今年最後のブログは、こういった若い方達に少し耳を傾けて欲しい内容を書き留めます。

 

年寄りの戯言だと思って最後まで読んで頂けたら幸いです。

 

 

 

知覧特攻隊員、遺書

祖父は特攻隊員

 

私の祖父(父方)は若くして人生を終えています。

 

享年24歳です。

 

今から75年前の1945年5月に亡くなったと祖母から聞いております。

 

祖父は神風特別攻撃隊の一員でした。

 

いわゆる特攻隊員ですね。

 

当時の特攻隊員が亡くなる日(命日)は、飛び立つ日と位置付けされていたみたいです。

 

『機上の人』になった日が命日です。

 

もちろん祖父の遺骨はありません。

 

米駆逐艦隊にアタック出来たのかも分かりません。。。

 

 

 

知覧特攻隊員、遺書
特攻前の訓示

知覧特攻隊とは

 

以下は祖父が飛び立った知覧特攻隊に関する説明記事です。

 

良ければご一読ください。

 

沖縄での陸軍に依る航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まります。

 

特攻作戦とは重さ250キロ爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず死ぬ、亡くなるという『必死』条件の作戦でした。

 

特攻作戦には知覧基地を始め宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったことから最も多く、全特攻戦死者1.036名中、439名(中継地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。

 

本格的な特攻作戦は陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きます。

 

特攻部隊の内、九州から出撃した部隊は振武隊、台湾から出撃した部隊は誠飛行隊と呼称しています。

 

   合掌

 

 

 

知覧特攻隊員、遺書
知覧特攻記念会館の内部

知覧特攻記念会館

 

祖父の唯一残された遺品が鹿児島県の知覧特攻記念会館という場所に保管されています。

 

既に故人である母方の祖母によって、この遺品はミュージアムに寄贈されました。

 

この知覧特攻記念会館は名前の通り特攻隊のミュージアムです。

 

亡くなられた特攻隊員の方の霊を弔い、若い人達に平和の尊さを伝えてくれる大切な場所でもあります。

 

祖父は『三角兵舎』という特攻隊員専用の宿舎で寝泊まりをし、ここで特攻前夜に仲間たちと一緒に指を切り、その『鮮血』で血書を書き残しています。

 

彼が残した最後の手紙です。

 

『自分の人生は最高でした。お父さん、お母さん、今まで育てて頂きありがとうございました。私の24年間の航海に微塵の悔いもありません。〇〇子、子供たちをよろしく(後は未来の子供たちへのメッセージを書き残しています)』

 

当時、祖父がどういう思いでこの遺書を書いたのかは今は知る由もありません。

 

こういった遺書をミュージアムではたくさん保管されており閲覧が可能です。

 

特攻隊で亡くなられた方は私の祖父を含め1.036名にのぼります。

 

 

 

知覧特攻隊員、遺書

アイデンティティー

 

祖父は自分の息子(私の父で祖父の特攻後に誕生)の顔を見ることなく南海の海に散っています。

 

祖父が居なければ私は存在しませんでした。

 

私は物心がついた頃に祖父の話を聞かされています。

 

この話を想い出す度に恐怖に刈られ、何とも言えない気持ちになった当時を今でも良く覚えています。

 

子どもの頃から自身のアイデンティティーに深く関心を持ち、探求して最後に行きつく場所がいつもこの祖父の存在でした。

 

祖父が全うした24年間を自分に置き換え悩んできました。

 

時代は違っていても、本当に悔いなく国の為に命を捨てる事が出来るものなのでしょうか。

 

 

 


生き残った特攻隊員

 

私は知覧特攻会館によく出向きます。

 

会館に行けば祖父の『血の血書』をいつも数時間は眺めます。

 

祖父のお参りを兼ねた自分探しでもあります。

 

今から30年以上前、特攻記念会館の慰霊祭に参列した時の事です。

 

当時は元特攻隊員の方も何名かご存命でした。

 

私は以前から、この方達に会うチャンスがあれば是非お聞きしたいことがありました。

 

私の祖父が『血の血書』や『遺書』に綴った言葉の真意など、元特攻隊員としての考えや思いを是非お聞きしたかったのです。

 

下記内容は今でも鮮明に残る元特攻隊員との会話です。

 

 

 

お国の為に喜んで逝きます。

 

天皇陛下、万歳、万歳

 

大日本帝国、万歳、万歳。。。

 

いろいろ皆さん書いていますが、当時は全て検閲が有るので仕方なかったんですよ。(※手紙内容は当時軍部がチェックし、こういった事を中心に書かないと非国民と見なされ手紙が届かない時代です。)

 

時代が違っても、若い人が一番に思うのは親兄弟や自分の家族の事です。

 

あなたもそうでしょ。

 

あなたのお爺さんも死にたくて死んだんじゃないと思う。

 

さぞ辛かっただろうに。

 

死ぬのは誰しも怖い事です。

 

私が知っている特攻隊員で、お国の為に喜んで死んだ人は一人もおらん。

 

変な目で戦争の犠牲になった特攻隊員を見ないで欲しい。

 

 

 

その言葉は強く、重かったのを今でも良く覚えています。

 

これをお聞きし、何か自分の中で吹っ切れたような感覚がありました。

 

溢れ出る涙が止まりませんでした。

 

逢いたかった私のお爺ちゃんの話です。

 

 

 


知覧特攻隊員、遺書
第109振武隊 加藤様の遺書

次世代への想い

 

昨今のニュースを見ていると『命』を軽視した事件や自殺等のニュースを散見します。

 

その背景には当事者たちの生い立ちや環境、本人しか解り得ない事があるのは重々承知です。

 

しかし昔も今も、生きたくても生きる事自体が困難(病気・貧困・戦争等)な方達が世界中には沢山います。

 

こういった方達は劣悪な環境があるにも関わらず、変わらぬ日々を大切に過ごし、今を一生懸命に生き抜いています。

 

私は若い時に東南アジアを中心にこういった方達を沢山見て来ました。

 

皆さん『命の尊さ』を理解されている人達です。

 

今の日本は若い人達にとって何の変哲もなく、生きにくい環境なのかも知れません。

 

人生に座標も無く、『ただ生きてやってるだけ!』と言う若者達を日本では多く見掛けます。

 

でも生きている事自体が本当は奇跡なんです。

 

『普通』は凄い事なんだと、幸せなんだと、誰しも分かる日が必ずやって来ます。

 

それは人生の終焉を迎える時です。

 

この事を先に気付かれた人は今を大切にしています。

 

そして精一杯のチカラを、どんな困難な環境でも出し続ける事が出来るでしょう。

 

人は生を受けた以上、必ず使命があります。

 

命を粗末にする事だけはやめて下さい。

 

 

 

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